『タロウのバカ』【11/22~】

2019/09/18

3人の少年の純粋にして過激な疾走を描く
大森立嗣監督、渾身のオリジナル脚本の映画化

『まほろ駅前』シリーズ(11・14)、『セトウツミ』(16)の軽やかな作風で多くの映画ファンを魅了し、茶道にまつわる人気エッセイの映画化『日日是好日』(18)では幅広い世代の支持を集めて大ヒットを記録。そんな多彩にしてプロフェッショナルな仕事の充実ぶりが目覚ましい大森立嗣監督は、今まさに日本映画界で最も勢いのあるフィルムメーカーのひとりである。しかし、そのフィルモグラフィーにはゴツゴツとした異物のような作品が点在しており、ひとつの型には収まらない映画作家としての底知れない個性を強烈に印象づける。長編第1作『ゲルマニウムの夜』(05)から『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』(10)、『ぼっちゃん』(13)、『さよなら渓谷』(13)、『光』(17)へと至る社会のアウトサイダーたちを描いた作品群である。

長編11本目となる最新作『タロウのバカ』は、大森監督が『ゲルマニウムの夜』以前の1990年代に執筆したシナリオに基づいている。本来はデビュー作として構想していたそのオリジナル脚本に、現代にふさわしい変更をいくつか加え、とりわけ思い入れの深い物語の映画化を実現させた。社会のシステムからはみ出した3人の少年の純粋にして過激な生き様を描く本作は、上記のアウトサイダー映画の系譜に連なるが、実際に完成した作品は「映画とはこうでなくてはならない」という既成概念を打ち破る、破格の問題作に仕上がった。

“何者でもない”タロウとは怪物か、天使か?
生と死の狭間を駆け抜ける獰猛な青春映画

思春期のまっただ中を生きる主人公の少年タロウには名前がない。彼は「名前がない奴はタロウだ」という理由でそう呼ばれているだけで、戸籍すらなく、一度も学校に通ったことがない。そんな“何者でもない”存在であるタロウには、エージ、スギオという高校生の仲間がいる。大きな川が流れ、頭上を高速道路が走り、空虚なほどだだっ広い空き地や河川敷がある町を、3人はあてどなく走り回り、その奔放な日々に自由を感じている。しかし、偶然にも一丁の拳銃を手に入れたことをきっかけに、それまで目を背けていた過酷な現実に向き合うことを余儀なくされた彼らは、得体の知れない死の影に取り憑かれていく。やがてエージとスギオが身も心もボロボロに疲弊していくなか、誰にも愛されたことがなく、“好き”という言葉の意味さえ知らなかったタロウの内に未知なる感情が芽生え始める……。

社会のルールや道徳を学んだことがなく、常に本能に駆り立てられるままに行動するタロウは、これまで大森監督が描いてきたアウトサイダーたちと比べても破天荒で常識破りのキャラクターだ。叫ぶことで感情を発露し、暴力や盗みを犯すことにも一切の躊躇がないその有り様は獰猛な野生動物のようであり、無垢な天使のようでもある。一方、高校生のエージ、スギオはそれぞれやるせない悩みを抱えているが、なぜかタロウとつるんでいるときは心を解き放たれる。大森監督はそんな理屈を超えた絆で結ばれた3人の行き先不明の疾走を、甘ったるい感傷を排した荒々しいカメラワークで捉え、はかなくも眩い“生”を映し出す。しかし、あまりにも危ういタロウらの行く手には深い闇が待ち受け、画面には息苦しいほどの“死”の匂いが立ちこめる。まさしくこれは生と死の狭間を駆け抜け、刹那的なきらめきを放つ異色の青春映画なのだ。

そして全編が寓話のようでいて、フィクションであることを忘れさせるほどの生々しいリアリティーとスリルがみなぎる映像世界は、社会的な弱者の排除、育児放棄といった今の日本の理不尽な現実をも取り込んでいる。その虚ろに壊れゆく世界のどこに希望はあるのか。そんな根源的な問題提起を鋭くもダイナミックに突きつけてくる大森監督、渾身の一作である。

 

2019年/日本/119分/R15+
監督:大森立嗣
出演:YOSHI/菅田将暉/仲野太賀/奥野瑛太/他
配給:東京テアトル

 

上映場所 ソレイユ・2(地下)
上映期間 11/22(金)~12/5(木)
11/22(金)~11/28(木) ①14:55 ②19:35
11/29(金)~12/5(木) ①14:50 ②19:50

[margin_5t](C)2019 映画「タロウのバカ」製作委員会

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